ririribbon's blog

アートとかサブカルとかオカルト好きな23歳SEが一切現実世界に関係ないことを書いていく。note始めました。https://note.mu/ririxxx

少女の臓物(2)

(続き)

これは清水さんの作品全体に言えることかと思うのですが、可愛らしいというよりは、神々しいんです。内臓をひたすら神聖な空気を纏って曝け出す少女。酷く歪なようですが、どこまでも「聖なるもの」として現前している。それは、マカロンのような色彩と、清水さん独特の垂れ目気味で西洋風の顔立ちが、宗教画的イメージを作り出しているからでしょう。

 

それが、2つの作品のイメージを真逆なものにしているのです。トレヴァーブラウンさんの内臓を見せる少女は、「挑発」「見栄」「無邪気」のイメージと言えるかもしれません。そう、それは「見せつける」という行為が存在します。嫌がろうとも、目を背けようとも、少女は「ほら」と内臓を差し出し、小馬鹿にしてきます。

 

対して、清水さんの人形の少女は、どこまでも静謐に横たわっています。それは、「許容」「慈悲」「超越」のイメージだと思います。清水さんの人形は、きっと内臓を見せつけはしない。あるいは、決して自ら切り開いたのではない。それでも、内臓を晒すことを許しています。許し、まるで見る者の苦痛や、加虐心をも受け止めてくれるようです。

 

私はTwitterで清水さんの背負ってきた環境、家庭を知りました。私は、人形作家というものを倒錯した自己愛や退廃に寄り添う者という目で見てきましたし、それは完全な誤解でもないと考えています。それでも、清水さんの表現の動機は異質ですし、あの人形のもつ「許し」はそこから発せられるイメージだと思います。それが、先月のトレヴァーブラウンさんの絵と対になって、より鮮明に私に刻み込まれたのです。

 

清水真理さんの人形に「許された」ことで、私は本当にあの展示を見てよかったと思いました。清水さんの人形を知ったのは、『ホッテントッドエプロンスケッチ』という映画がきっかけだったのですが、その映画でも、清水さんの人形は、様々なことを許容していたような気がします。その話は、いずれ、思い出しながら書きます。