ririribbon's blog

アートとかサブカルとかオカルト好きな23歳SEが一切現実世界に関係ないことを書いていく。note始めました。https://note.mu/ririxxx

夢―こんな夢を見た

初台にある、画廊 珈琲 Zaroffの「夢ーこんな夢を見た」展を見た。京王新線初台駅から徒歩5分程度、駅前通りから外れて歩く。初台に来るのは初めてかもしれない。思ったよりも過ごしやすい土地だ。暫く住宅街を歩き、何軒か小ぢんまりとした店を過ぎる。二つの路地がV字に交わる角に嵌るように建つ、アリスアウアアを纏った年齢不詳の女が住んでそうなレトロな2階建てが、地図で見る限りそうなのだろう。1階の喫茶室には人の気配がした。確かギャラリーには喫茶室を通らなくても入れる構造だったはず。角を作っている反対側に回ると、喫茶室とは別の扉を見つけた。開けていいのだろうかと戸惑うような扉。開ける。

 

扉の先は、急な木造の階段だった。現存する明治期の木造家屋で見た階段と同様の形状。靴を脱いで、墜落しないように、上る。低い天井に頭をぶつけないように、夢とは何かと考える。私は夢を殆ど見ない。稀に見たとしても、それはシェイクされた前日の反復か、身に差し迫る感覚から体が想定する危機でしかない。だから、私は、自分の夢を形に残したいと思うことが無い。というよりも、残す程の形が無い。以前、大学の講義に現代文学の作家が講演してくれた際に、連日グロテスク且つ救いの無い夢を見る言っているのを聞き、やっぱり自分にはコンテクストが足りないと痛感した。

 

結論から言うと、一番自分に「来た」のは、木村龍氏の「いおぎい国」の世界観だろうか。「骨屋の嫁入り」の血と桜、そしてセーラー服という闘いと少女趣味のイメージ。「しかめ笑いの猫」の路地裏、怪異のイメージ。それらは、今一番自分に不足していたものに思えた。不条理さ、切なさ、背徳感。そこに蔓延するセピアがかった、架空のレトロの世界は、知りたいと思った。居たいと思った。そんな世界を隠し持っているのが羨ましくてならなかった。

 

好きなのは、「妖狐」の絵だった。自分を犯した男は必ず喰う、という妖狐の性をツールに目的を達成するという精神性に共感するからだろう。あとは、複雑に幾重にも、粗雑に見えるほどに描かれた線による混沌が、陰惨な空気を醸し出しているから好きなのかもしれない。

 

今回行く理由になった清水真理氏の作品は相変わらず美しく、浄化してくれるようだった。中川多里氏の人形は、荘厳な、畏怖すべき神性を感じたが、清水真理氏の人形は、やはり救世主だった。それは許しであり、救いの聖性だった。どんな夢の世界なのか、考えるまでもなく、ただただ救われていたかった。

 

帰る時は、階段の両側や正面に、絵やら、人形やら、柱時計やらが展示されているのに気付くことが出来た。丁度、頭上の柱時計が不協和音を奏で始める。誰かの夢で見るような、路地裏の、二度と辿り着けない骨董屋の光景だ。それは私の夢ではない。