探し物(1)
ビッグウェーブに飛び乗って、アンディ・ウォーホル展に行ってみた。
猫も杓子もという言葉を体現したように、本当にただ来たよ!という人が他にも多数いらっしゃって、行列をなしていた。同じ会社の人までいて、心底驚いた。
そこで、気を留めたのは、晩年のウォーホルの、巨大な十字架の作品だった。
彼は、カトリック教徒だったらしい。カトリックの厳格で保守的なイメージと、社交的でビジネスライクな彼のイメージがどうも重ならなかったが、よくよく考えると、信仰という下地があったからこそ、彼は華麗な社交界やマスメディアの元でも自分を見失わずに思うように創作し続けることができたのではないかと思う。自分の名声に群がってきた人間に裏切られても、「神」は裏切らないと思える。それはとても幸福なことだ。
その点、日本人は謎の自由を得ているから辛い。日本人は、宗教に根ざしたイベントを日々経験しながら、結局宗教に浸かること無く、大多数の人が生きて行く。
いざ、という瞬間になって、「ああ、神様お願い。」と祈るも、祈る対象の「神様」のイメージを何一つ描けず、それに対して手を合わせるのか、手は叩くのか、指は組むのかという祈りの作法すら曖昧だ。私たちは何に祈っているのだろう。「天照大神」?「運命の女神」?あるいはサタン?
だから、ある一定の年齢に差し掛かった人の、地に足の着かない行動を指した、「自分探し」という単語は実は誤りで、本当は、私たちは「神探し」をし始めるのだと思う。信じるもの、思想の根幹に薄く張ったセイフティーネット。だから、「自分探し」の一環でよく大学生がインドに行ったり、「パワースポット」に嵌ったりするのも、自然な流れだと思う。
最近だと「放射能」という「神様」。むしろ祟り神。「放射能」を恐れ、「司祭」的な役割を果たす人々の言うことを信じて、食べ物を選別したり、祟り神に障ろうとする東電を叩いたりするという教義を守っていれば、救われるという思想も、「神探し」の末路だなぁと思う。「神探し」への欲求は、思春期を過ぎても、ふとした瞬間に蘇るようだ。
(とりとめもなく続く)