ririribbon's blog

アートとかサブカルとかオカルト好きな23歳SEが一切現実世界に関係ないことを書いていく。note始めました。https://note.mu/ririxxx

スパンアートギャラリー「みずうみ〜少女と毒薬〜」

前回「不可思議な遊戯」を観覧に行ったスパンアートギャラリーに、再度赴きました。私が愛して止まない『ピピ嬢の冒険』の画家、古川沙織様より案内のハガキを頂いたことがきっかけです。以前、みうらじろうギャラリーで催された「少女地獄」展で記帳した際に、ファンである旨と、住所を書き添えたことで、送付頂けたようです。

 

少女のために毒味をして果てた裸体の男と、恍惚の表情で毒味の瞬間を待つ裸体の男、そしてそれらを足下に侍らせる女王然とした少女の傍らにはキリスト教絵画で受難の象徴であるヒワが寄り添います。ヒワは受難の象徴ですが、ヒワが見守る「受難」は決して男達の死ではないように思います。むしろ、男達の恍惚の死によって消費された、有限の少女性ではないでしょうか。

 

横にある、二人の少女が口づけを行う傍らにも、縛られ、傷つけられる少女の傍らにもヒワは寄り添います。少女性が消費され、少女が少女でなくなる瞬間に向かって行く彼女達。少女性の搾取、消費こそが彼女達の受難であります。皮肉なことに、その消費の瞬間こそ、少女が最も輝く、価値を持つ瞬間です。キリストが神になるまでの受難を見守ったヒワ。しかし、少女は、受難の後、神にはなれません。むしろ、もっと俗へ、もっと下界へと堕ちていきます。ヒワは何のために見守っているのでしょう。もしかしたら、少女性を消費する裸体の男達から彼女達の少女性を掠め取るように消費しているのかもしれません。

 

いろいろ書きましたが、私は単に古川様の作品が好きなのです。少女の愛らしさ、残酷さ、グロテスクさ、そして男性の被虐が共存する世界観が、こんなことを言うのはおこがましいですが、共鳴するのです。

 

最後に、絵を凝視していた私に声をかけてくださった、古川様の優しさに感謝したいと思います。イメージ通り、どこか物語の中のような、少女の可憐さを持った、優しく素敵な方でした。また次回の個展や書籍も楽しみにしております。

 

 

夢―こんな夢を見た

初台にある、画廊 珈琲 Zaroffの「夢ーこんな夢を見た」展を見た。京王新線初台駅から徒歩5分程度、駅前通りから外れて歩く。初台に来るのは初めてかもしれない。思ったよりも過ごしやすい土地だ。暫く住宅街を歩き、何軒か小ぢんまりとした店を過ぎる。二つの路地がV字に交わる角に嵌るように建つ、アリスアウアアを纏った年齢不詳の女が住んでそうなレトロな2階建てが、地図で見る限りそうなのだろう。1階の喫茶室には人の気配がした。確かギャラリーには喫茶室を通らなくても入れる構造だったはず。角を作っている反対側に回ると、喫茶室とは別の扉を見つけた。開けていいのだろうかと戸惑うような扉。開ける。

 

扉の先は、急な木造の階段だった。現存する明治期の木造家屋で見た階段と同様の形状。靴を脱いで、墜落しないように、上る。低い天井に頭をぶつけないように、夢とは何かと考える。私は夢を殆ど見ない。稀に見たとしても、それはシェイクされた前日の反復か、身に差し迫る感覚から体が想定する危機でしかない。だから、私は、自分の夢を形に残したいと思うことが無い。というよりも、残す程の形が無い。以前、大学の講義に現代文学の作家が講演してくれた際に、連日グロテスク且つ救いの無い夢を見る言っているのを聞き、やっぱり自分にはコンテクストが足りないと痛感した。

 

結論から言うと、一番自分に「来た」のは、木村龍氏の「いおぎい国」の世界観だろうか。「骨屋の嫁入り」の血と桜、そしてセーラー服という闘いと少女趣味のイメージ。「しかめ笑いの猫」の路地裏、怪異のイメージ。それらは、今一番自分に不足していたものに思えた。不条理さ、切なさ、背徳感。そこに蔓延するセピアがかった、架空のレトロの世界は、知りたいと思った。居たいと思った。そんな世界を隠し持っているのが羨ましくてならなかった。

 

好きなのは、「妖狐」の絵だった。自分を犯した男は必ず喰う、という妖狐の性をツールに目的を達成するという精神性に共感するからだろう。あとは、複雑に幾重にも、粗雑に見えるほどに描かれた線による混沌が、陰惨な空気を醸し出しているから好きなのかもしれない。

 

今回行く理由になった清水真理氏の作品は相変わらず美しく、浄化してくれるようだった。中川多里氏の人形は、荘厳な、畏怖すべき神性を感じたが、清水真理氏の人形は、やはり救世主だった。それは許しであり、救いの聖性だった。どんな夢の世界なのか、考えるまでもなく、ただただ救われていたかった。

 

帰る時は、階段の両側や正面に、絵やら、人形やら、柱時計やらが展示されているのに気付くことが出来た。丁度、頭上の柱時計が不協和音を奏で始める。誰かの夢で見るような、路地裏の、二度と辿り着けない骨董屋の光景だ。それは私の夢ではない。

 

 

 

 

異界と身体性—マルク・シャガールによせて—

宇都宮美術館でシャガール展が催されているらしい。

運良く今週末帰省出来たら見に行く所存ではある。

 

いつも自分主催で何かを観に行く時は、予習をしてしまう癖がある。

しかも、事実とか歴史とかそういった唯一無二の知識を仕入れることはせず、

変なところの共通性を探したり、穿った見方の基となるようなことを知ったりして

喜んでしまう。

バルテュス展の時も、バルテュスの絵の中の少女を魔法少女に、

小道具の猫を遣い魔に例えた書評を頭に叩き込んで観に行った。

 

多分、プレゼントを選ぶ訳でもないのにビレッジバンガードに居着いたり、

トーキングヘッズを収集したり、ゲスの極み乙女を好んで聴く人種には

そういう傾向がありそうな気がする。

 

シャガールの絵は、宇都宮市美術館のコレクションにも何点かあり、

常設展でそれは見ることが出来る。

記憶に灼き付いているのは、若干ねじ曲がったカップルと宙に浮いた白馬。

幻獣が飛び交う世界だから、身体が歪むのか、

あるいは、常軌を逸した身体が幻想を招くのか、

シャガールの世界はどちらだろう。

 

シャガールの身体は、キュビズムとかに比べるとデッサンの狂いかな?

って感じるくらい全然正常に近い物で、だからこそ、幻想がどこから来るのかが

気になってしまう。

 

少しずつ、わからないくらいに身体が歪んで行って、

意識も曲がり、気付くとそこら中に白馬が飛び回っていて、

自分も宙に浮いてって、なんか社畜をしてるとありそうで怖い。

 

それよりも、異界に飛ばされて、身体も少しずつ溶け込んで行って、

というほうが平和だし、何か幸せそうだよね。

 

 

 

探し物(1)

ビッグウェーブに飛び乗って、アンディ・ウォーホル展に行ってみた。

猫も杓子もという言葉を体現したように、本当にただ来たよ!という人が他にも多数いらっしゃって、行列をなしていた。同じ会社の人までいて、心底驚いた。

 

そこで、気を留めたのは、晩年のウォーホルの、巨大な十字架の作品だった。

彼は、カトリック教徒だったらしい。カトリックの厳格で保守的なイメージと、社交的でビジネスライクな彼のイメージがどうも重ならなかったが、よくよく考えると、信仰という下地があったからこそ、彼は華麗な社交界やマスメディアの元でも自分を見失わずに思うように創作し続けることができたのではないかと思う。自分の名声に群がってきた人間に裏切られても、「神」は裏切らないと思える。それはとても幸福なことだ。

 

その点、日本人は謎の自由を得ているから辛い。日本人は、宗教に根ざしたイベントを日々経験しながら、結局宗教に浸かること無く、大多数の人が生きて行く。

いざ、という瞬間になって、「ああ、神様お願い。」と祈るも、祈る対象の「神様」のイメージを何一つ描けず、それに対して手を合わせるのか、手は叩くのか、指は組むのかという祈りの作法すら曖昧だ。私たちは何に祈っているのだろう。「天照大神」?「運命の女神」?あるいはサタン?

 

だから、ある一定の年齢に差し掛かった人の、地に足の着かない行動を指した、「自分探し」という単語は実は誤りで、本当は、私たちは「神探し」をし始めるのだと思う。信じるもの、思想の根幹に薄く張ったセイフティーネット。だから、「自分探し」の一環でよく大学生がインドに行ったり、「パワースポット」に嵌ったりするのも、自然な流れだと思う。

 

最近だと「放射能」という「神様」。むしろ祟り神。「放射能」を恐れ、「司祭」的な役割を果たす人々の言うことを信じて、食べ物を選別したり、祟り神に障ろうとする東電を叩いたりするという教義を守っていれば、救われるという思想も、「神探し」の末路だなぁと思う。「神探し」への欲求は、思春期を過ぎても、ふとした瞬間に蘇るようだ。

 

(とりとめもなく続く)

少女の臓物(2)

(続き)

これは清水さんの作品全体に言えることかと思うのですが、可愛らしいというよりは、神々しいんです。内臓をひたすら神聖な空気を纏って曝け出す少女。酷く歪なようですが、どこまでも「聖なるもの」として現前している。それは、マカロンのような色彩と、清水さん独特の垂れ目気味で西洋風の顔立ちが、宗教画的イメージを作り出しているからでしょう。

 

それが、2つの作品のイメージを真逆なものにしているのです。トレヴァーブラウンさんの内臓を見せる少女は、「挑発」「見栄」「無邪気」のイメージと言えるかもしれません。そう、それは「見せつける」という行為が存在します。嫌がろうとも、目を背けようとも、少女は「ほら」と内臓を差し出し、小馬鹿にしてきます。

 

対して、清水さんの人形の少女は、どこまでも静謐に横たわっています。それは、「許容」「慈悲」「超越」のイメージだと思います。清水さんの人形は、きっと内臓を見せつけはしない。あるいは、決して自ら切り開いたのではない。それでも、内臓を晒すことを許しています。許し、まるで見る者の苦痛や、加虐心をも受け止めてくれるようです。

 

私はTwitterで清水さんの背負ってきた環境、家庭を知りました。私は、人形作家というものを倒錯した自己愛や退廃に寄り添う者という目で見てきましたし、それは完全な誤解でもないと考えています。それでも、清水さんの表現の動機は異質ですし、あの人形のもつ「許し」はそこから発せられるイメージだと思います。それが、先月のトレヴァーブラウンさんの絵と対になって、より鮮明に私に刻み込まれたのです。

 

清水真理さんの人形に「許された」ことで、私は本当にあの展示を見てよかったと思いました。清水さんの人形を知ったのは、『ホッテントッドエプロンスケッチ』という映画がきっかけだったのですが、その映画でも、清水さんの人形は、様々なことを許容していたような気がします。その話は、いずれ、思い出しながら書きます。

 

 

少女の臓物(1)

今日は人形作家清水真理さんのヴァニラ画廊での個展に足を運びました。『ポップ・シュルレアリズム宣言』というタイトルを掲げた個展です。シュルレアリズムとか不勉強なことには言及しません。はい。

 

一番気に入ったのは、「メメント・モリ」という作品なんですけど、これは少女の肉体がところどころ滑落して内部の空間が見える仕様で、そして、中には小さな朽ちた人骨が詰め込まれているんです!もうそれが素敵で、可愛くて。

皮膚が滑落した部分から、血肉ではなくて、飛行船みたいな骨組みが覗いている少女もかっこ良かったです。超越的な肉体は美しい。

そんな小並感はいいんですが、ここですごく目を惹いたのが、ヴァイオリンの箱に寝かせられ、刳り貫かれた腹部の皮膚により、内臓を晒した少女の人形です。すごい既視感を感じて、先月パラボリカビズにトレヴァーブラウンさんのドローウィング展を見に行ったことを思い出したのです。そこにも、腹部の皮膚を刳り貫いてカラフルポップな内臓を晒す少女が描かれていました。

 

色彩の違いかもしれない。トレヴァーブラウンさんの描く内臓は臓器ごとにピンクやブルーでくっきりと色分けされて鮮やかで、それがポップさを際立たせていて、可愛いらしいです。それは丁度、きゃりーぱみゅぱみゅのアートワークを手がける増田セバスチャンや、アーバンギャルド的「可愛い」です。対して、清水さんの作る内臓は、マカロンのような、綿菓子のようなあわあわとした色彩で、ふんわりと色付けされていて、澄まし顔の少女と調和していました。

 

(続く)